0214
著者:るっぴぃ


 渡貫裕貴にとってバレンタインデーとは決して居心地のいいものではない。
 男子なら一度は経験したことがあるだろう、何ともそわそわとした周りの雰囲気に、否が応でも合わせなければならないのがどうにも億劫なのだ。裕貴はもともと恋愛というものにあまり興味が無いので尚更だ。
 その上身近に非常にモテる人間がいるので周りに合わせて彼を僻むふりと、彼に合わせて僻んでいないふりをしないといけないという矛盾した行動によって、毎年帰宅する頃にはへろへろになっているのが常だった。裕貴は中学時代に彼に会って初めて靴箱がチョコレートで埋まるという漫画みたいな現象に出くわした。バレンタインの日に彼を擁護する男子は裕貴一人なので、彼一人では到底食べきれないチョコレートをお裾分けしてもらうという役割も毎年の心労に足されているかもしれない。
 その彼、沼部飛鳥はと言うと終始爽やかなのでどうにも突っかかりにくいのだ。実際は爽やかさなんてあまり変わらないのかもしれないが殺気立ったバレンタインの中でチョコレートを山と積み上げた状況でなおそれなのだから演技か素のどちらかなのだ。裕貴は付き合いを重ねていくうちに、飛鳥が演技などできない人間であることを知っているからより一層ストレスを抱え込むことになる。
 しかも飛鳥はチョコレートをもらうことを一切拒否しないからたちが悪い。勿論付き合う気のない娘には(というか今までは全てそうだった)「義理ってことでいい?」と聞くのだが、本命のつもりで持ってきたという娘さえせめて食べるだけでもと飛鳥のもとにチョコレートを押しつけていくのだ。おかげでより取り見取りなチョコレートが揃ってしまうわけである。食べる分には文句が無いのだが、稀に非常によろしくない味のものが入っていたりすると悲しくすらなってくる。むしろ最後の1個を食べる頃になるとどれもこれも酷い味に思えてくるのだ。甘くて気持ち悪いし。
 しかし今年はラッキーだったのだ。なぜなら今年のバレンタインデーは休日なのだから。休日ということはまず送られてくるチョコレートの絶対数が少ない。その上休みの前後に分散するため短時間で食べなければならないということもない。しかも彼の社交能力の高さ故か直接手渡しの方が数が多いので、休み直前に受け取る可能性が高いのだ。勢いをつけるなら早い方がいいから。後はそれを連休中にゆっくり食べればいい。

 ……だったはずなのに。

「……なぁ飛鳥、これは何だ?」
「何って、チョコレートの山だろ?」
「そういうことを聞いているんじゃないんだ。何で今日ここに大量のチョコレートが存在しているかを聞いているんだ」
 今日はそのバレンタインデー当日である。朝っぱらから飛鳥と同室の部屋のドアがノックされたと思ったら管理人さんが大量のチョコレートを抱えてきたのだ。赤い色で梱包された数々のチョコレートがかなり大きな紙袋から溢れ出そうになっている図はなんだかグロテスクですらある。
 飛鳥はそれも気にとめないように袋からチョコレートを取り出しては賞味期限別に仕分けしていく。商品で同じものが2個以上あれば半々にするのも怠らない。
「さっき言ってただろ? 下駄箱とロッカーと机から溢れ出て邪魔だって」
「……さっき聞いたよ」
 がっくりと裕貴は肩を落とす。飛鳥の向こうにはもう3つほど紙袋が置いてあるのが見える。どれもこれもはちきれんばかりにチョコレートの包みが入れられている。
「さて、頑張って食べるかー」
 のんきそうに言う飛鳥に、裕貴は今夜のおかずを一品奪ってやろうと心に決めるのだった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 竜崎吉能にとって今年のバレンタインデーは去年までと違う意味を持っている。
 去年まで竜崎は女子中に所属していたし、義理チョコでさえ贈るような人は身近にいなかったからバレンタインの近くなるこの時期になるとどうにもカリカリとしていた。周りの女子が誰にあげるだの、誰にあげただのと騒ぐのがどうにもわずらわしかったし、数少ない男性教諭のそわそわした態度も気に入らなかった。どちらにしてもあげる気はないのだが、欲しいのなら欲しいと言えばいいのにとさえ思っていた。毎年似たような状況が続いたので、3年になるころにはバレンタインデーの話題を聞くことすら嫌いになって彩桜受験前だというのにすっぱりとニュースを見るのをやめてしまったほどだ。おかげで時事問題の一部は何が何だか分からなかった。
 そんなわけなので竜崎にとってバレンタインデーとは未知の代物に近い。
 しかしそんな彼女が義理チョコという概念すらよく理解できていないのは、これはただ単純に彼女が意地っ張りだからだ。竜崎は誰かに自分の知らないことを聞くという行為が軽々と許せるような人間ではないし、たとえ自分が許したとしても恐怖や羞恥と言いう感情で足がすくんでしまうだろう。かといって何も知らないで臨むのはもっと怖い。
 竜崎はなんだか矛盾しているなぁ、と弱気に考えつつ、それでもこうして買ってきてしまったチョコレートと、一通り仕入れた知識通りに揃えた調理器具を前にして思う。正直なところ自信は全くなかった。いや、そうではない。もうすでに自信は打ち砕かれているのだ。
「焦げてしまった……、か……」
 ボウルの中に入った焦げ茶色の存在を見てそう思う。ぶすぶすとまではいかないが、それにかなり近いところまで行っているんじゃないかと思う。そういえば料理でチョコレートを扱うのは初めてだった気がする。
「……ルネを呼べばよかったか……?」
 それは普段、プライドの高い人間である竜崎にとっては敗北宣言に近いつぶやきだった。しかし用意したチョコレートが焦げてしまったというショックの前に、竜崎はそのことにすら気付けない。
 竜崎はふらふらとした足取りで携帯電話を取り出すとルネの番号をプッシュした。
『もしもし。ああ、私だ。ルネか?』

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 バレンタインデー症候群というものがある。
 要するにバレンタインデーの直後に下痢・痙攣・鼻血などチョコレートアレルギーの症状を持って病院に駆け込むやつのことを言うらしい。去年までなら自業自得だと言いきっていたのだろうが、今年はどうしてそこまで強く言うことが出来そうもない。理由は簡単で自分の今の症状がそれだからだ。流石に痙攣まではいかないし、鼻血もすぐに止まったが、下痢だけはいかんともしがたい。共同生活者が多い寮でいつまでもうずくまってるわけにもいかないし、少しだけとはいえ落ち着いた今はこうしてベッドに横になっているのだが。
 ちなみに同居人はと言うとドラッグストアに買い物に行ってしまった。買い置きが無いのもあったし、何よりもうチョコレートを見ていたくなかったらしい。出かける前の最後の会話がこれだ。
『はぁ……、当たったのが飛鳥でよかったよ……。これで僕が当たってたら死んでも死にきれない』
『……オイ、今まさに起き上がれすらしない親友に向かってその台詞はないんじゃないか? つうかこんなんで死ぬかよ』
『いいや、そっちこそこれから薬を買ってきてやろうという同居人に言う台詞じゃないな。それも今の自分と同じ苦しみを味わうかもしれないほどの危険を冒してまでチョコレートを食べる作業を手伝ってやっていた、心優しい同居人に対して。とにかくおとなしくしてろよ、帰ってきたら部屋から異臭がするなんて御免だからな』
 裕貴は言いきると、これだからバレンタインは嫌いだとばかりにコートを荒々しく羽織り、ドアを強く叩きつけて部屋を飛び出した。それ以来この部屋にあるのは沈黙だけだ。
(あー、暇だ……)
 少しぐらい体を動かしていたいが、裕貴がいつ帰ってくるかもわからないし、教科書だの漫画だのを読む気分でもない。どうしたものかと考えていると部屋が控え目にノックされた。
「おぅ、竜崎か? 入れ入れ」
 飛鳥自身、竜崎にしてはノックをするなんて――ましてや控え目だなんて――変だと思ったのだが、それ以外にこの部屋に入ってこようとする人間に心当たりが無かった。“委員会”活動開始以来、同じ寮生ですら入りたくないと言われるようになったこの部屋だからこその思考だったのかもしれない。
「あ、はい〜。失礼します〜」
 予想に反して、入ってきたのは百鬼芽々だった。
「なんだ、お前か……」
 彼女は春から夏に季節が移り変わろうとする頃に裕貴と何かがあったらしい。詳しいことを裕貴から聞いたわけではないが、それ以来ちょくちょく裕貴と顔を合わせているようだ。
「お前とは失礼ですね〜。それより裕貴さんはいらっしゃらないんですかー?」
「裕貴なら外出中だ。用事があるなら俺が聞いとくぞ?」
「そうですか〜、ところで裕貴さんの机はどちらですかー?」
「正面に4歩」
 芽々の正面4歩の場所にあるのは飛鳥の机である。飛鳥は芽々と会うことは少ないが、読心術のようなものを身につけていることは知っている。だからこうして毎回いたずらを仕掛けているのだが、今まで一回も勝てたためしがない。そのことを含めて、飛鳥はなぜかこの娘のことが気に食わなかった。
 しかし今回こそ芽々は飛鳥の言葉に忠実に4歩前へ進む。飛鳥が自らの勝利を確信した瞬間、芽々は机の上に手を載せて思いっきり振り払った。
 ごとん、と賞状の筒が落ちる音がする。
「うおっ、お前!」
「騙そうとするあなたが悪いんですよー? ん、裕貴さんの机はここですね〜」
 芽々は自力で裕貴の机を探し当てるとごそごそと何かをして(多分チョコでも置きに来たのだろう)、「それでは〜」と言い残して帰っていってしまった。
 あっという間の出来事に飛鳥は茫然を通りこして呆れかえっていた。相変わらず、裕貴の方は行動力が半端じゃないというか、そんな人間ばかりが集まるようだ。下駄箱や机の中に入れるなんて不確実な行動をとる飛鳥のファンたちとは大違いだ。見習わせてやりたい。
 そんなことを考えていると、いま一度部屋がノックされる。芽々が何か忘れ物でも取りに来たのだろうか。いい加減うんざりしながら飛鳥は入室許可を出す。
「ノックなんていいからさっさと忘れ物取ってけよ」

「忘れ物? 今来たばかりでできるはずがないだろうが」

 入ってきた客に今度こそ飛鳥は開いた口が塞がらなかった。竜崎吉能がそこにいた。
「……ちょっと待て、何でお前がここに居る?」
 竜崎は憮然とした表情を隠すこともなく答える。
「なぜって、別におかしいことはないだろう。そこの扉から入ってきたんだから」
「いやまて、そういうことじゃないんだ。何でわざわざ今日に限って扉をノックしたかっていうのを聞いているんだ」
「ふん? ノックするのがそんなにおかしいか。なら折角持ってきたこれも私の方で処分してしまうとするか」
 竜崎はほれほれとチョコレートのラッピングを俺の目の前で振る。さっき裕貴と分けて食べたものと同じラッピングだ。市販のものなのだろう。味はまぁまぁで、少なくともこの一年にかけられた迷惑とはとても釣り合わない。
「はん、いらねぇよ。そっち見てみろ。おかげで俺はこのざまだ」
 竜崎は、俺が指さしたチョコ山とこの昼間っからベッドの上で横になっている俺を交互に見比べると、思いっきり笑いだした。
「あっはははははははははははははは! あははははっはははっはは! 食べ過ぎたのか! あははははははは!」
「おい、笑うなよ……」
「いや存分に笑わせてもらう。あっははははっはは! バレンタインにチョコを食べ過ぎる人間なんてな! あはははははははははははは!」
 ひとしきり笑い終えると、竜崎は「裕貴は帰って来そうにないし、私も帰るかな」と言って帰っていってしまった。なんだか既視感を憶える構図だった。
 二人が去った後に残ったのは、家主が一歩も動いていないのにしっちゃかめっちゃかになった部屋と、2つのチョコレート。
「ふあー、これでルネが来る展開とかだったら笑うぞ、俺は」
 ぼりぼりと頭を掻いて飛鳥は起き上がる。その姿に先ほどまで腹痛を起こしていた辛さの陰のようなものは微塵も見られなかった。飛鳥は机の上に置いてあった携帯電話を取り出すと、短縮にあるルネを選択して。
「とりあえず、作戦成功……、か」
 笑う彼は、どこか楽しそうだった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

通話記録/録音開始

『おーい、これでいいのか?』
『ええ、十全ですわ。少し予想外のことがあったとはいえ、二人が会えないなんてことはないでしょうし、ここから先のサポートは不要でしょう』
『それにしてもあんな演技不要だったんじゃないか?』
『わかってませんわね。二人っきりで会うからこそ面白……いえ、盛り上がるんじゃありませんか』
『お前今面白いって言いかけただろ……』
『何のことですの?』
『お前ってそんなキャラだっけ……』
『春はもしかしたら猫を被っていたかもしれませんわね』
『いや思いっきり被ってただろ。……それにしても、そこまでくっつけなきゃいけないものなのか?』
『別にそんなことはないと思いますわよ?』
『そうだよな、やっぱりそうじゃなきゃ……って違うのか!』
『なんで人が他人の恋愛事情に口を出さなければならないか、あなたにはわかりますの?』
『……。いや、わかんねぇけど……』
『ひとつは純粋に友人を応援したいというものですわ。もう一つは仲を壊したいという悪意から。当然ですけど、私はどちらでもありませんわ』
『じゃあなんだっていうんだよ……』
『そう呆れた声を出さないでもらいたいところですけど。じゃあ私は何なのかと言えば簡単に言うなら娯楽ですわね』
『うおぃ!』
『まぁまぁ、いいではありませんか。それぐらいの楽しみがあっても』
『……』
『あら、すみません。ちょっと用事が出来てしまいましたわ』
『ああ、もういい加減こっちも電話を切りたかったところだ』
『そうですわね。これ以上話していても面白そうなことがあるとも思えませんし』
『結局それかよ……』
『ふふっ、それでは』
『ああ、んじゃな』

通話記録/録音終了

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 チョコレートで腹を壊したときにどのタイプの薬が効くのかなんてことは素人に分かるはずもないので、一般的な下痢止め薬を買うことにした。多くても仕方が無いので15錠ぐらいのものをレジに置く。1500円近くしたが、これは飛鳥にツケておいても大丈夫だろう。
 買い物を終えて外に出ると、暖房の点いた店で暖められた体に2月の寒さがこたえる。慌てて手袋をつける間に指先がすっかり冷たくなってしまった。はぁ、と手袋越しに息を吹きかける。今日は学校が休みだからか、この寒い日に出たいと思う人が少ないのか人影は疎らだ。ほとんどないと言い換えてもいい。
 裕貴は冬が嫌いだ。X’masやらV.D.やら裕貴のような立場ではどう転んでも辛い行事が多いし、ネット中毒なので指先やら足先が凍える。年末年始は何かと忙しいし、布団に入っても寝つけない。だから裕貴はこれならまだ夏の方が快適だと思っている。
 駅前を、できるだけ日向や店先の暖かいところを通りながら歩く。店先は、ほのかに出てくる暖気が凍える体に心地いい。
 ふいに、視界に誰かが入ったような気がした。
 振り向くと、そこに居たのはきょろきょろと所在なく視線を巡らせる、竜崎吉能がいた。誰かを探しているのか、くるくると視線が動く。
「やあ、竜崎」
 裕貴が声をかけると竜崎はびくっ、と肩を震わせて振り返って来る。その行動は恐る恐るといった風で、裕貴にすらそれが何だか竜崎らしくないと感じさせるほどだ。
「あ、ゆ、裕貴か。ぐ、偶然だな」
「いやまぁ偶然と言えば偶然だけど。どこか具合でも悪いの?」
「どうしてそうなる!」
「いや、なんだか調子が狂うというか、いつもの竜崎らしくないから……」
「き、気にするな! どうせこれから帰るところだ」
「そう? じゃ、送るよ」
 裕貴は、少しぐらいは反対されるかなと思ってそう言ったのだが、それに対する反論は飛んでこなかった。やっぱり今日の竜崎はどこかおかしい。
 竜崎の住むアパートは高級とまでは行かなくてもそこそこ新しくて綺麗なアパートだった。2階建てで、各部屋2DKだそうだ。竜崎曰く、「一人で扱いきれないがな」らしい。秋頃に両親が長期出張になったために、前の家を引き払って借りたらしい。
「ああ、ちょっと待っててくれ」
 竜崎は先ほどそう言い残して2階に上がっていった。あれから少したつのに、未だ顔を見せない。
 裕貴が実際忘れられているんじゃないかと若干心配になりかけた時、ようやく竜崎が顔を出した。
「裕貴、折角だからこれでも持っていけ!」
 窓から顔だけを出した竜崎は、そういって何かの包みを放り投げてきた。落とさないように何とか受け止める。
 それは今日、裕貴が嫌というほど見たチョコレートの包み紙だった。手作りだったのか、包みは店で売っているものほど綺麗に閉じられていなかった。
「これ、今食べてもいいかな」
 その言葉に竜崎はびくっと反応すると、照れくさそうにそっぽを向いて言う。
「そ、それはお前にあげたんだから好きにすればいいだろう?」
「うん、じゃあちょっとあけるね」
 ぴりぴりと包みを開けると、均一にそろえようとしてできなかったのか、幾つかの不器用な大きさのチョコレートが出てくる。一口大のそれをひとつつまみあげると、裕貴はそれを口の中に入れる。砂糖が少ないのか、焦げてしまったからか、あるいは両方かもしれないが口の中に広がるのは苦い味だった。ごくんと嚥下しても、その味は消えない。
「すまんな、初めてだったから少し焦げてしまったが……」
「いや、おいしいよ。さっきまで飛鳥に嫌というほど甘ったるいのを食べさせられてたからね。これぐらいでちょうどいいよ」
 裕貴はそう言って、包みからもう一つチョコレートを取り出す。
 竜崎の驚いた顔を見るのが、なんだかやけに楽しかった。
「そうか、なら……よかった」

 だってその顔を見ていたら、口の中の苦いチョコレートも世界で一番甘く感じられるのだから。



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